編集修業

 自費出版が出版文化の一翼としてはばたいていくためには編集者が本づくりに参加することがカギだろう、と考えている。それでは編集とはどういう仕事なのだろう。どういう知識や技術が必要なのだろう。この世界は伝統的な職人技というか、著名な出版社でも、新人は見よう見まねで収得していくものらしい。  私はもともと新聞の編集者だった。記事をチェックし、価値判断をする。見出しをつける。読みやすく美しく紙面を割り付け(レイアウト)し、工場で作業の指示をする。印刷のゴーをかける最後の責任がともなう仕事でもある。これは下版とか降版とかいった。
 青年団体の機関紙の仕事をするため22歳で東京に出た。新聞の世界では「編集」を「整理」という。京都の友人に、「わざわざ東京へ行って新聞の整理(スクラップづくりだと思ったらしい)をさせられているのか」といわれたりした。ほんのわずか新聞づくりの経験と活字の知識があったが、レベルは高が知れている。  基本ルールは印刷所の植字労働者(職人さんといったほうがふさわしいが)に教わったことが多い。私の仕事は週刊新聞だったが、工場は日刊の新聞も作っていて、下版直前の現場は誰も彼も殺気だっていた。まだ本文だけ活字を自動鋳造するようになったころのこと。見出しや訂正の活字拾いも、様々な素材を組み合わせて版を組み上げていく作業も、もちろん訂正作業もも手仕事だった。
 現場を仕切っていたHさんは、レッドパージで大新聞社を追放され、その工場にきて全体の技術を作り上げたようなた人。いわば日本の新聞工場の最先端の仕事をしていたのだし、志も高く仕事にも厳しい。Hさんが私の担当だと足のすくむ思いがした。横に立って割り付け用紙を渡し、紙面を組んで行く作業の指示をする。大判一面にぴったりとおさまるような割り付けは整理記者の正確な仕事がなければならない。初心者は腹切り、両流れなどなどの禁じ手になっているのに気付かずに割り付け用紙を渡したりする。問題を指摘されれば即座に対応し指示しなければならない。うーん、と考えていたりすると、「電信棒じゃねぇんだろ!」と、ドスのきいた声で一喝される。
 2年目に新年号の大判24頁を一人で担当した。追い込みの数日は夜明けに少し仮眠するだけ、もうろうたる状態で工場へ行くという恐ろしい状況だったから、工場にとっては無理難題続きだったろう。最後の頁を下版し、現場にお礼のあいさつをしたとき、Hさんは印刷インクにまみれたごつごつした手で、私の両手をがっちりと握ってくれた。その時、お前も人並みの仕事をしたといわれたようで、目頭がジーンと熱くなった。そして少し自信につながった。
 出版の仕事は新聞の仕事との違いもあるが、文字の文化を扱うことなど共通点も多いから、出版編集に移ってもとまどうことは少なかった。その原点が、あの握手だったのだと、思ったりしている。

(斉藤)