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涙のあと、あなたは 内梨真帆さんは、1996年、小学校6年生の時に、右脳に腫瘍が見つかり最初の手術をうけました。それから8年、20回に及ぶ手術や、放射線療法、化学療法など苦しい治療に耐えて、医師や看護師、周囲の人々を驚かしてきました。 ◯ 真帆さんが出版をめざして書いてきた闘病記は未完におわりました。「もしものときはママが完成させるのよ」といっていた彼女の遺志をついで、交流のあった多くの人々に励まされながら、母親・昌代さんがこの本を完成させました。
もくじ
プロローグ 真帆さんのたたかい
1984.10.6 内梨家の長女として誕生 阪大病院小児科病棟。ともに病気とたたかう「戦友」たち、小さな子どもたちのいのちが消えてゆく。中学生だった真帆はその理不尽さに憤り、なんとしても医師になろうと決心した。
まだ一歳にもならず、片言をしゃべってつかまり立ちし、とてもかわいい赤ちゃんだった。その子がはじめてしゃべった言葉は『パパ』でもなく『ママ』でもなく、それは『いちゃい、いちゃい(痛い、痛い)』だった。私はこの世に神はいないと思った。許せなかった。……ショックだった。私はこの時、絶対に医者になってやろうと思った。……学校に通って授業を受けることさえできない私だが、必ず気力でやってやろうと思った。 真帆は度重なる再発、手術で高校も中退せざるを得なかったが、病室で独習を続け、大検に合格、阪大医学部をめざしてセンター試験に挑んだ。
◯
幸せだった。予想外の最高のひとときだった。手術で頑張った自分へのご褒美だ !! 忙しい中、会いに来てくれてありがとう。私はやっぱり最高の幸せ者だ。 真帆が「運命の人」とよぶDr.との出会いは彼がまだ研修医だったころ。真帆さんの日記はDr.のことでうめつくされている日々が多い。周囲に気を配り、弱音をはくことのなかった真帆さんも、Dr.へのメールにはつらい気持ちを打ち明けていた。Dr.の話をするときは顔が真っ赤になった。そんなどこにでもいる女の子だった。
◯
「神様は耐えられる試練しか与えないんだよ」「人間は生きる長さじゃない。生きている内容なのだ」どんな苛酷な状況でも彼女は動じることなく、いつも明るくふるまって周囲を驚かせた。
頭の手術で局部麻酔というから何故かワクワクした。局麻だとスタッフの声やその場の状況がとてもリアルにわかりそうだと思われて…(オンマヤチューブ設置手術に際して) 「医師として患者さんを尊敬したのは真帆ちゃんがはじめてです。ありがとう」主治医はそういって真帆を見送った。
◯
ありがとう。 中学で担任だった寺倉先生とは文字通り「親友」のような仲だった。9歳年上の恵姉さんは病気で落ち込んでいた時、真帆と知り合って励まされ、本当の姉妹のようにつきあうようになった。書道家の畑中先生は手術をこわがっていたが、真帆の影響で手術を決心し、以後彼女を見守り支えとなる存在になった。そのほか数え切れない人たちが真帆のまわりに集まっていた。真帆はそれらの人々から多くのことをまなんで成長した。真帆が遺した日記にはそれらの人々に対する「ありがとう」のことばがちりばめられている。
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